「慰安所」設置の場所

       

 日本軍が海南島に侵入を開始したのは、1939年2月だったが、はやくもその翌3月に、海口の海軍情報部長は、 台湾台北の海軍武官室を通じて台湾拓殖会社に「慰安所」設置を依頼した。これは、日本外務省・日本海軍・日 本陸軍の三省連絡会議の決定にもとづくものであった。
 台湾拓殖会社はただちに応じ、5月に海口に「海軍慰安所」を設置した。その後、日本軍は海南島各地に「慰安所」 を設置した。

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海口

海口中山路近くにある時計台
 海口の慰安所には、朝鮮人朴来順さん、金玉珠さんも入れられていた。金玉珠さんは、「慰安所」から、時計台が見えたと証言している。  
 
「慰安所」があった中山路
中山路にあった「慰安所」のひとついまは茶店になっている
黄礼分さん
 「慰安所の名前は富乃屋。日本人が経営していた。 慰安婦の女性は十数人いた。30過ぎくらいの人が多かったように思う。
 わたしは、1941〜1942年の2年間、氷菓子を売る店で働いていた。その店の主人が富乃屋を経営していた。  主人は慰安所にいつもいたので、そこに氷菓子を売ったお金を持っていった」。
黄礼分さん(1922年生)
 
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